
物語は、年老いたマリアの一人語りという形式で語られています。そこに描かれているのは、神聖視されたマリアの姿ではなく、イエスの母としてのマリアであり、1人の女性としてのマリアです。一般にイエスは、マリアに処女懐胎して生まれたことになっています。しかしこの本では、普通に父と母マリアの結婚によって生まれたという風に感じられました。
さらにマリアは、成長したイエスが多くの人たちを従えて、数々の奇跡を起こすことを快く思っていなかったのでした。それは為政者に目をつけられる危険な行為だと考えていたのです。しかし、イエスにはそんな母の言葉は届きませんでした。
そして、ついにイエスが十字架に架けられる日が来てしまいました。イエスの支持者に連れられてその場所まで赴いた母は、息子が無残に死んでいくところを目撃することになったのでした。私はよく知らないのですが、死んで十字架から下ろされたイエスは、母やヨハネ、マグダラのマリアなどに取り囲まれたことになっているようです。しかし、この本のマリアは、それをばっさりと否定します。イエスが処刑された時、捕縛人はマリアたちを捕らえようと狙っていたのです。そこでマリアたちは、イエスの死を確認することなく、その場から立ち去ったのでした。
それからのマリアは、ほとぼりが冷めたところでイエスの支持者たちによって匿われて生きることになりました。そんなマリアの元に、福音書を書いている弟子たちが通ってきて、昔あったことをしりきと尋ねます。彼らはイエスの死によって、全ての人間は罪を許されたのだと伝えようとしています。しかし、それはマリアには理解できないことでした。
聖書の知識があまりないので、どれだけ物語をきちんと読み込めたか自信がありません。しかし、聖母マリアも神聖視するカトリック信者である著者によって、このような物語が書かれたことには驚きました。そして、現在まで続くキリスト教の最大の貢献者は、イエス本人ではなく、その死すら巧みに利用して伝えた記録者たちなんだなあと思いました。
最終更新日 : 2016-04-22