藤原定家が作った百人一首の中には、中宮・定子の歌は含まれていません。それは、もしかしたら・・・。
実方は都を去ることになり、清少納言のことを公任に託しました。ところが、都から離れて間もなく実方は亡くなってしまったのでした。そんな中、公任は実方に言われたことを思い出しました。そこで下の句だけを書いた詩を清少納言の元に届けさせました。才女として名高い清少納言の実力を、試してやろうとしたのです。その挑戦に、清少納言は期待通りの答えを返して応えました。
道長が勢力を広げたことで、帝は道長の要求をのまなければならない立場へと追い込まれました。道長は彰子を入内させるように帝に迫りました。中宮・定子の立場が悪くなることを危ぶんだ帝は、これに抵抗しましたが、結局は行成の働きもあって、彰子は帝の元に入内することになりました。
そんな中、中宮・定子は帝の子を出産しました。しかし、そのまま定子は亡くなってしまったのでした。定子だけに仕えることを決めていた清少納言は、宮中から去りました。そんな清少納言の元を、行成が訪れました。仕事とはいえ、行成は定子の立場が悪くなることを承知で彰子の入内を進めてしまいました。そのことで行成も苦しんでいたのでした。
そんな行成に、清少納言は自らの思いを伝えたのでした。清少納言が書いた枕草子には、明るい定子の様子だけが書かれています。それを後生の定子のイメージとするために、清少納言はその後宮中にも出ず、距離を置いた生活をしていたのでした。人は楽しかった思い出があれば、それを心の糧に生きていくことができるのでしょうか。
後年、枕草子を編纂したのは藤原定家だったそうです。枕草子を読んで、清少納言の定子に対する思いを知った定家は、楽しかった定子の思い出だけを残すために、あえて百人一首に定子の歌を加えなかったのかもしれませんね。
実方は都を去ることになり、清少納言のことを公任に託しました。ところが、都から離れて間もなく実方は亡くなってしまったのでした。そんな中、公任は実方に言われたことを思い出しました。そこで下の句だけを書いた詩を清少納言の元に届けさせました。才女として名高い清少納言の実力を、試してやろうとしたのです。その挑戦に、清少納言は期待通りの答えを返して応えました。
道長が勢力を広げたことで、帝は道長の要求をのまなければならない立場へと追い込まれました。道長は彰子を入内させるように帝に迫りました。中宮・定子の立場が悪くなることを危ぶんだ帝は、これに抵抗しましたが、結局は行成の働きもあって、彰子は帝の元に入内することになりました。
そんな中、中宮・定子は帝の子を出産しました。しかし、そのまま定子は亡くなってしまったのでした。定子だけに仕えることを決めていた清少納言は、宮中から去りました。そんな清少納言の元を、行成が訪れました。仕事とはいえ、行成は定子の立場が悪くなることを承知で彰子の入内を進めてしまいました。そのことで行成も苦しんでいたのでした。
そんな行成に、清少納言は自らの思いを伝えたのでした。清少納言が書いた枕草子には、明るい定子の様子だけが書かれています。それを後生の定子のイメージとするために、清少納言はその後宮中にも出ず、距離を置いた生活をしていたのでした。人は楽しかった思い出があれば、それを心の糧に生きていくことができるのでしょうか。
後年、枕草子を編纂したのは藤原定家だったそうです。枕草子を読んで、清少納言の定子に対する思いを知った定家は、楽しかった定子の思い出だけを残すために、あえて百人一首に定子の歌を加えなかったのかもしれませんね。
最終更新日 : 2022-10-30
私が後世に伝えたい定子様のお姿は…… …
2012/09/08 18:26 つれづれ